昭和57年9月28日朝の御理解
入力 広崎克一
、これは少し願いこれは沢山願うということはない 不同の、同じである、みんな同じ願いになってこなければならない。先ずは体の丈夫を本気で願わなければならない、家庭に不和のなきが元と云われるのですからこれも繰り返
し願わなければならない、いよいよ子孫に続く繁盛が続く、家繁盛子孫繁盛の願いを本気でさしてもらわなくてはならぬ。
ためには唯願うだけではなくて、願うからにはそれに対する引き当てというか、願う印がなからなければならぬ。「どうぞ体の丈夫を」と願いながらまあ例えて云うと大酒大食をしたりして、「どうぞ体の丈夫を」と願ってもそれは願いの筋が立たん。
「どうぞ家庭に不和のなきが元」と願っておるのですから、これは繰り返しどうでも願わねばならんことですけど、願うからにはね、私どもは不平不足ども云うておったんでは、家内のものの足元ばかり見えておるようなことであったり、愚痴不足を云うようなことでは、云いながら「どうぞ円満を」と言うて願ってもこれは本当のことではありません。
いよいよ家繁盛子孫繁盛を願うならば、いつも繁盛の元になる、いうならば精進も努力もさせて頂いて家繁盛子孫繁盛を願わないといかん。
「どうぞ金が貯まりますように」、と願って要らん事に金を使うといったような片一方では、ことでは、いうならば、「お金が貯まりますように」との願いにならない。
願うからにはそういう身辺をね、これは本当にそうです、体の丈夫、家庭に不和のなきが元、家繁盛子孫繁盛、これはどうでも繰り返し繰り返し願わねばならんことですから、願うからにはその修行を引き当てになる修行をまた忘れてはならんのです、その修行のことも願わなければならんのです。
私は最近特に今までこの願いがあんまり、この、まあ云うなら「実のある願いでなかったなあ」と自分でも思わして頂いて、4番目にご用のことがあります、最近ご用即ち天地に対する還元、そういうご用こそ本当のご用だと頂いてからこの方その4番目の御用ということに何か特に願いを新たにしている訳でございます。
「どうぞ今日も天地に還元できるようなご用でありますように」一日一生懸命立ち働かせて頂いただけではいかん、立ち働かせて頂いた、それが天地に果して還元になる働きであったかどうか、「どうぞ今日も大切なご用をお差し許しを頂きますように」と皆さん特に持つようになりました、考えてみると五つの願いのなかにチヨット不同があったように思います。
ここには今月の取次者に対する、ご信者に対する心掛けでしょう、良い信者もない悪い信者もない一視同仁だ、沢山御供えが出来るから良い信者というような不同な扱いをしてはならない。
させて頂きたいと思うても出来ないでおる信者の上のことを取り分け願わして頂けるような取次者としての心がけを説かれたものだと思いますけど今日私は私共の祈りの中にも不同のものがあってはならない。
特に合楽で云われる五つの願いというものが同じ例えば健康を願っても円満を願っても子孫繁盛家繁盛を願っても誰でも力を抜くことは出来ない真剣に願わなければならないこと。
と同時に御用ということについて、いわば不同の祈りのような感じがするのです、それも本当のことが分らして頂いたら御用ということに対して力を入れたり思うたりするんです。
本気で「今日も御用が私用になるようなこと
がございませんように真剣に本当に天地に還元、いうならば天地が受けて下さるような御用でありますように」という願いを最近特にいたしております。神願成就のためのご用の端にも使こうて下されということは、そのご用が本当に出来て始めて云えることだと思うんですよね。
「神様あなたの手にも足にもならして下さい」と願うからには、やはり本当に天地に通う、天地に還元が出来るような働きが出来るようになることが先ず先決である。
この五つの願いを皆さん繰り返しなさっておられる事と思います。拍手してご神前に
向こうたら、この五つの願いだけは願えと私は言うておる訳です、私自身もそれを願っております。
だからどれが重いどれが軽いということはない、一様なんです、不同な思いで祈らせてもらう、祈るからにはその裏付けになる修行も又いとうてはならないし、又精進をしなければならない。
そこでなら取り分け、ご用という事が何か軽るかったような感じが致しします、ところが最近ではご理解を頂いて、本当に私だけではない、ここにご神縁を頂く皆の人が一生懸命それぞれに立ち働きのおかげを頂いておるのだから、せっかく、いうならばの働きが「どうぞ天地に還元が出来るような内容、働きが出来ますように」と云う願いを持つわけでありますが皆さんもその願いを持たなきゃならん。
そこに一番大切なポイントになる処はね、いつでもどんな場合でも無条件であることのようですね、ご用ということは。
これからこんなでこうすればいくらになるといったようなソロバンを持ったでなくてね、御用のできる、御用に使こうて頂くと云う事があり難いという頂き方、いたや無条件。 私今朝から本当に若い時には私は金光様の信心はこれは「自分は信心せにゃ助からん」と、子供の時から思い込んできたんですけれども、お道の教師になろうとか教会を持たしてもらうなんて夢考えなかったこと、それがこうゆうことになって30数年おかげを頂いてきておる。
本当にこれといって取得もない私が今日までこうやっておかげをいただいてきたことを今朝お礼申さして頂いておりましたら、先だってから頂きます天地に抱かれたような大きなノシを頂いたんです。
それで私考えてみますのに私はこの取次者として神様ご用に使うて下さるようなってから、あの此の方というものは確かに条件がなかったように思います。何十年間条件のない、唯人が助かることのためのご用に唯々使こうて頂いたという。
その代わり、こうしますからこうして下さい、こうしますからああして下さいというようなものがなかった、いうならば、無条件で私が夢にも思わなかった取次者としてのご用をダンダン果たさして頂いてきたということが今日合楽のおかげの比礼の元になっておるんだということを今朝から改めて頂いて感じた事でございますが。
誰でも立身出生を願わん者はありませんよね、けど立身出生とてもです、立身さしてもらいたい、出生さしてもらいたいから願うというのはやっぱり条件がある。
無条件の、いうならご用が出来ている内に何時の間にか、いうならば、合楽の場合だったら、こ皆さんがあれよあれよということではなかったでしょうか。
私を知った昔の知った人達がです、「えらい信心にうち込んでおられるな」と思うて見ておった人が、あれよあれよという間に合楽教会がこんなダンダン人が助かる大きな教会にお引き立て頂いたんです。
「どうでも大きな教会を持たにゃならん」といったようなものはなかったんです、ですから立身出生とてもです、土台になるもの元になるものは無条件のご用から神様がまた無条件におかげを下さるということになるのではないでしょうか。
今日私は信者に不同の扱いをするな、真の信心、「信心の手篤いのが真の信者じゃ」と最後にいっておられるが私どもが信心の手篤いのがまことの信者とは日々無条件のご用が出来るようなおかげを頂いた時が手篤い真の信者ということになるのじゃないでしょうかね
どうぞ。